雛人形や五月人形を初節句のお祝いに贈るなら、岩槻人形優良店

岩槻人形の由来

写真提供:(公社)さいたま観光国際協会

岩槻で人形の生産が本格的に始まったのは江戸時代のことだそうです。起源については諸説ありますが、日光東照宮建立のために集められた工匠の一部が残って人形作りを始めたという説が一般的とされています。
もともと桐の産地であったことや水が豊富だったことなどがその理由とされていますが、江戸に近く人形を量産する体制が備わっていたことも発展に拍車をかけたようです。

目次

  1. 京都から江戸へ節句ブーム到来
  2. 岩槻人形の誕生

京都から江戸へ節句ブーム到来


徳川家康が天下統一を果たし江戸時代が始まると、戦が無くなったことから武士は衰退し、代わりに商人たちが権力を握るようになっていきました。
一方、徳川家は朝廷との仲を揺るぎないものにするために2代目秀忠の娘である和子を天皇家へ嫁がせたのです。それまでは宮中だけで行われていた桃の節句や端午の節句など、節句行事の習慣が江戸城にも伝わったことで徐々に一般庶民へも広がっていきました。
後に江戸の町中に人形屋が軒を連ねるほど節句人形は大流行したそうで、浮世絵にもその様子が残されています。節句に人形を飾るという習慣が日本中に広がっていきましたので、江戸からすぐの岩槻にも影響が色濃く及んだのは自然なことだったと考えられます。
経済活動が活発になり商人たちの手によって新しい趣向の人形が次々と生み出され、流行を作り出した時代でした。雛人形も元々は男雛と女雛だけの親王飾りでしたが、江戸時代になって三人官女や五人囃子といった新メンバーが登場し、買い足すことを楽しむという演出もなされました。

「雛人形」1857年(安政4年)歌川国盛
出典:国立国会図書館ウェブサイト(https://www.dh-jac.net/db/nishikie/NDL-225-00-010/portal/)を基に作成

岩槻人形の誕生


提供:さいたま市

雛人形は作り方の違いから大きく分けて衣装着雛人形と木目込み人形の2種類があります。現在、岩槻ではどちらのタイプも生産されていますが、「岩槻人形」とは岩槻周辺で作られた日本人形の総称です。
伝統的な技法で作られる木目込み人形は「江戸木目込人形」と呼ばれていて、どちらも経済産業省の伝統的工芸品に指定されています。
市松人形に代表される日本人形と言われるものの多くは人形サイズに縮めて作られた本物同様の和服を身に付けていますが、これには高い技術が必要で特に頭や顔の表情は最も重要なポイントです。
実は市松人形も江戸時代に日本中で流行した人形のひとつで、格子柄の着物をトレードマークに大人気を博した歌舞伎役者、佐野川市松がモデルだと言われていますが、この時代には既に人形製作の技術がかなり高い水準に達していたことが分かります。
岩槻は豊富にある桐の粉を使った “桐塑頭(とうそがしら)”という独自の技法で、美しくなめらかな肌の人形を作ると評判だったため、当時から江戸の人形ブームを支える人形の産地でもあったようです。
現在でも節句人形の生産・出荷額は埼玉県が全国ナンバーワンで2020年の調査では45%以上を占めています。そういった背景も含めて岩槻は昔から「人形の町」と言われているのです。